義経の家臣、佐藤継信の末裔(まつえい)が明治初期に建てた漁場建築の代表的な建築物。
現在でも人が住んでおり、ニシン場時代の資料や文献が大切に保管されています。 |
| 建 物 |
母 屋 間口24.3m(13間半) 奥行18m(10間)
部屋数 1階10室 2階7室 計17室
用 材 内部総桧材・漆塗り |
| 建築年 |
明治10〜20年の間(道教委) |
| 特 徴 |
和洋折衷様式
・屋根の洋風六角の明かり取り・切妻屋根の煙り出し
・2階の上げ下げガラス窓・1階のタテシゲ格子
・寄せ棟屋根
・西洋風下見張り(外壁の横板張り重ね)漁夫宿泊部がないこと
番屋を別に設けたことによる。 |
詳 細
| 漁場建築 |
佐藤家 |
| 所在地 |
寿都郡寿都町字歌棄町有戸163番地 |
| 指定年月日 |
昭和43年3月29日 |
| 管理者 |
寿都町役場 |
佐藤家は、嘉永5年(1852)以降に歌棄、磯谷二場所の場所請負人を勤め、維新後は駅逓取扱人を命ぜられた同地方随一の名家である。積丹半島開発および漁法改良に尽力した開発功労者としても著名である。
この建物は、国道229号線に接して正面を海岸に向けて建ち、母屋は間口24.3メートル、奥行18メートルの2階建で、よせ棟屋根に西洋風下見張り、2階正面には櫛形ペジメントの付いた上げ下げガラス窓、1階前面はたてしげ格子、さらに、下見張りの戸袋でまとめ、屋根の大棟をまたいで洋風の六角形の明かり取り、その背後に和風の切妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風とが入りまじった折衷の独自のスタイルの外形をもっている。
内部は、正面右より玄関からかぎの手の形の土間が奥まで通り、その左側には、前向に帳場、その後に常居が並び、かぎの手土間に接して台所がある。また、帳場の奥には、前面に沿って中の間、浜座敷と並び、常居の奥は、六畳、仏間と並ぶ。仏間の後方には上段の間があり、六畳の後方には九畳、常居後方には八畳がある。また、常居から二箇所の階段があり二階に上がるが、二階正面に5室、後方にかぎの手状の大室がある。また、常居から台所の脇を通って、下屋で後方別棟の土蔵に通ずる。以上のように、ニシン漁場建築に普遍的にみられる漁夫宿泊部をほとんど含んでいない点に特色がある。
この建物の完成年代は、佐藤家の口伝では明治3年としているが、確認資料は発見されていない。外形の洋風建築形式からみて、常識的には明治10年から20年の間の建築と思われる。
旧態の保存が良好である上、建築年代、規模、意匠、構造の諸点からみて、現存の漁場建築中で、この建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。
佐藤家の業績
| 初代 |
佐藤 定右衛門 |
嘉永5年(1852)
松前藩主から歌棄、磯谷場所の場所請負人を任命 |
| 二代 |
佐藤 栄五郎
(後 伊三右衛門) |
「鰊建網」を創設。
従前の刺網漁法を定置網(行成網)に変え、西海岸繁栄の基を築いた。 |
道路開墾 (初代・二代)交通・運輸は海路のみであったが、遭難事故が頻繁に発生。
陸路開拓を私財をもって行うことを函館奉行所に願い出。汐路(歌棄)から黒松内までの16キロと、磯谷から岩内(雷電)までの4キロの計20キロを安政3年(1856)完成。幕府函館奉行から賞詩を受け、苗字を許された。
佐藤家の祖先
源義経の家臣、佐藤継信の末裔と伝えられている。
佐藤継信・忠信兄弟の兄。 源平屋島の合戦で義経めがけて飛んできた矢を身代わりになって受け、戦死した忠臣といわれている。
建物内の長押には、家紋の「源氏車」をかたどった金具を打っている。
嫡流(ちゃくりゅう) 佐藤 丹後 ― 嫡男(ちゃくなん) 佐藤 与右衛門 −(略)− 佐藤 定右衛門 ―
| 初代主 |
佐藤 定右衛門 |
| 二代 |
佐藤 伊三右衛門 (松前枝ヶ崎町在住の桝屋栄五郎 初代 定右衛門の甥)明治28年病死 |
| 三代 |
佐藤 重三郎 (初代主 定右衛門の実子) |
| 四代 |
佐藤 栄右衛門(重三郎の長男 幾太郎 初代主 定右衛門の実孫) |
| 五代 |
佐藤 孝二 |
桝屋定右衛門(栄五郎の父)
| 寛政12年(1800) |
陸奥(むつ)国信夫(しのぶ)郡飯坂(いいざか)町生まれ |
| 文政11年(1817) |
31歳で渡道し、福山町で衣料品販売の桝屋という店を開き、かたわら臼尻や椴法華で、鱈場の請負人となり、また箱館で海産商を営んだ。 |
| 寛永 5年(1853) |
松前藩主から歌棄、磯谷場所の場所請負人を任命。着業資金に6,800両の経費を要した。(「開拓の群像」中) |
| 安政 3年(1856) |
陸路開拓を私財をもって行うことを函館奉行所に願い出。汐路(歌棄)から黒松内までの16キロと、磯谷から岩内(雷電)までの4キロの計20キロを安政3年(1856)完成。幕府函館奉行から賞詩を受け、苗字を許された。 |
桝屋栄五郎(第2代 佐藤 伊三右衛門 初代 定右衛門の甥で養子縁組)
従来の刺網を改良し、建網を考案して漁獲方法に一大改革をした。
(これが佐藤家敷地内に建立された碑の由来である。)
「北海道建網(行成(いきなり)網(あみ))漁業発祥之地」昭和30年10月建立 北海道知事 田中敏文 書
松前(桝屋)四代 佐藤 栄右衛門
| 明治37年(1904) |
第2期道議会議員選挙に当選(3期、4期、5期の連続4回当選) |
| 大正 4年(1915) |
第12回衆議院議員総選挙に当選。 |
| 大正 6年(1917) |
議会出席中に死亡 |
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| 担当部署 教育委員会 住民学習推進係 TEL:0136−62−2100 |
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