町政

寺院

本町には、各所に14の寺院があります。歴史的建造物としても価値のある建物も多く残っています。

菩提院

<p>【真言宗智山派】新栄町236番地</p>

【真言宗智山派】新栄町236番地

1891年、本別本山の福住職が北海道で布教活動を行うよう本山から辞令を受け、弟子3人と共に渡道した。道内を回った結果、最も栄え布教が行いやすい地として、寿都が選ばれ、1892年真言宗の寺の創設となった。最初は民家を借りた小さなものであったが、同年中に、この地に移り本堂を建設し、菩提院の寺号を与えられた。その後、老朽化のため1961年に本堂を新築している。
渡島町から新栄町につながる寺町通りと少し離れた山側に位置するのは、寺町通りに最後に建立された願乗寺の隣(北側)は、川が流れ敷地を得ることができなかったからという話である。

願乗寺

<p>【浄土真宗本願寺派】新栄町153番地</p>

【浄土真宗本願寺派】新栄町153番地

願乗寺は西本願寺派の寺で、寺町通りの北端に位置する。
箱館別院の住職が、鰊漁で栄えていた寿都町に寺を建てようと思い、1890年、この場所に願乗寺を建立した。
寺騒動があって9人もの住職が入れ替わっていた明治40年代に、現住職の先々代が富山から移ってここに入った。願乗寺も1914年の大火で全焼しており、寺だけでなく貴重な書類等も失ったという事である。その後再建され、さらに1959年に新築されている。

龍洞院

<p>【曹洞宗】新栄町147番地</p>

【曹洞宗】新栄町147番地

龍洞院は、曹洞宗の寺である。1874年5月15日許可とともに小教院と号として矢追町に一寺を建築し、同年6月18日麒獄洞院と改称した。1886年6月3日現在に移転し、本堂と庫裏の新築に着手した。その後1914年の大火で全焼したため、数年して1923年本堂再建が始まり、さらに昭和に入り位牌堂、向排、庫裏を新築した。本堂は番屋建築を移転したもので、屋根が寄棟になっている。

法界寺

<p>【浄土宗】新栄町144番地</p>

【浄土宗】新栄町144番地

本尊阿深彌陀如来安置している寿都町法界寺は、1856年6月5日寺社奉行本多中務大輔殿より許可された浄土宗の寺である。1863年6月再建し、1879年3月25日地蔵堂を法界寺と改めた。1893年12月10日に堂宇改築を申し出て、1895年4月落成し、広大な伽藍となったが、1914年5月27日の大火で焼失してしまった。この時住職となった当山五世の仲井徳順師は法界寺の再建に貢献した人で、同年10月假堂の建立を始め、次いで1928年5月24日、本堂の工事に着手し、翌4年6月20日落成に至った。もとは現文化センター(開進町)の近くに建てられていたが、明治初期に現在地に移った。

善龍寺

<p>【真宗大谷派】渡島町122番地</p>

【真宗大谷派】渡島町122番地

1869年大谷派本願寺23世現如上人が北海道開拓の朝名を受け函館に上陸した。札幌へ向かう途中、随行していた旭園秀に住職を申し付け寿都町に寺を創設し、1871年もともと寿都町にあった善龍寺に当山寺号が与えられ、湛然が2世住職となった。1884年本堂を新築して大伽藍をなしていたが、1914年の大火で本堂が全焼したため、その後建て直している。当初は現小学校のグラウンドの辺りにあったが、1887年頃までに現在地に移った。

法華寺

<p>【日蓮宗一致派】渡島町111番地</p>

【日蓮宗一致派】渡島町111番地

1855年法華宗の信者である人が、妙見菩提像を背負っての巡業中にたまたま訪れた寿都町で、海岸にいた青森や秋田からの出稼ぎ労働者たちに大漁祈願を頼まれ、同町に滞在することとなった。年々信者は増えてゆき、1879年に寺がひらかれ、当初は、漁師の家の片隅を借りただけの説教所のようなものであった。1888年法華寺となり、現在地に寺が建立された。渡島から新栄町にかけて形成されている寺町通りの一番東にあたる。

法龍寺

<p>【曹洞宗】樽岸町樽岸194番地</p>

【曹洞宗】樽岸町樽岸194番地

法龍寺は曹洞宗の寺である。1882年ごろ、樽岸地区に曹洞宗が布教され、龍洞院(新栄)の出張所として、四間四方の建物で行われていた。1884年この地の人口が増え、広く祖先を祭るために説教所を創立、さらに1891年「耕雲山法龍寺」として本堂を新築する。
 1979年に檀信徒、地域住民の協力により、本堂の増改築、庫裡の新築が行われた。

教立寺

<p>【浄土宗本派】歌棄町歌棄419番地</p>

【浄土宗本派】歌棄町歌棄419番地

教立寺は浄土宗の寺で、1879年東京の浄土宗大本山増上寺から新地開拓と布教を命ぜられた真田辨順が寺を創建し、法縁によって増上寺となる。
 教立寺の本尊は平安時代中期の高僧“恵心僧都源信”の作である。
 1854年から、長万部、歌棄間の山道は強盗が出没し、危険であった。強盗対策のために閻魔大王像と地獄の検査役、そして地獄変相図が現在、この寺に保存されている。

西光寺

<p>【真宗大谷派】歌棄町歌棄439番地</p>

【真宗大谷派】歌棄町歌棄439番地

1870年、現如来法嗣御来堂の際に仏法の縁が結ばれ、1888年西光寺と寺号を公称した。
 建物は、京都の東本願寺設計者の伊東平左衛門による設計によるもので、寒さに耐えられるよう、本堂の周りが廊下で囲まれた内殿式である。設計時には、柾葺きの屋根であったが、その後瓦に、そして現在はトタン葺きとなっているが、屋根以外はその頃のままである。

龍昌寺

<p>【曹洞宗】歌棄町歌棄456番地</p>

【曹洞宗】歌棄町歌棄456番地

龍昌寺は曹洞宗の寺で、寿都町の寺院布教の中で一番古く、1856年幕府の許可を得て布教したのに始まる。そのころ歌棄地区は鰊の生産などで活気にあふれており、明治20年代に入ると、移住民が多くなり信徒も増え、明治24年現在地に新築移転する。1895年6月瓦ぶきにより新築。
 また、本堂前の素彫り彫刻の図柄は作者不明であるが、中国司馬温公の伝説の一図であり、この唐子図は、本道では見当らない貴重な作品である。

新豊寺

<p>【曹洞宗】歌棄町美谷965番地</p>

【曹洞宗】歌棄町美谷965番地

新豊寺は六本山永平寺(福井県)の直属の寺で、1900年地域住民の願いによって、現在地に建てられた。当時この地は鰊漁で栄え、人口は約900人に達していたが、集会場もなく、葬儀関係にあっても、不便な状態であった。このため、地域住民の手で「地蔵堂」(現在の寺の横)を建てたが、小さい堂のため法要関係ができなく、さらに寺の建築を進めた。
 1910年、本堂を新築し、それと同時に地蔵堂廃止。1968年には庫裡を大改築し、今日に至っている。

願翁寺

<p>【曹洞宗】磯谷町島古丹265番地</p>

【曹洞宗】磯谷町島古丹265番地

願翁寺は曹洞宗の寺で1856、島古丹の大黒沢に建立されたもので、磯谷では最古の寺院である。神仏混淆の寺で漁家との関わりも深かった。1903年類焼し、翌1904年に再建されたが2010年1月に大火により全焼、同年再建された。1907年に奉納された拾六羅漠木像は文化財として道の調査の対象になったこともある。また、千体地蔵も貴重なものである。

登順寺

<p>【日蓮宗】磯谷町島古丹455番地</p>

【日蓮宗】磯谷町島古丹455番地

松前西海岸に流れつき漁師の手によって引き上げられたという日蓮聖人の石像を祭ってある。松前福山法華寺の末寺として、1876年旧教部省の許可を受け説教所を開いたのが始まり。
 1890年寺号公称と同時に現在地に建設、1906年には本堂老朽化のため2年がかりで改築。1976年堂宇老朽化により庫裡も新築した。

最尊寺

<p>【真宗大谷派】磯谷町島古丹456番地</p>

【真宗大谷派】磯谷町島古丹456番地

最尊寺は浄土真宗大谷派の寺である。明治時代2回類焼したため、古い時代のことはほとんど不明であるが、建立は1859年といわれている。
 1878年の大火により類焼し、翌1879年現在地に移転、九間四面の本堂を再建した。
 1903年に再度大火により類焼し、現在の本堂は1910年に建てられた。

【担当部署】教育委員会  住民学習推進係    TEL:0136-62-2100

寿都鉄道

寿都鉄道の8100型機関車が、汽笛一声を発したのは大正9年10月27日である。寿都~黒松内間16.5kmを結ぶ民間鉄道であった。函館~小樽線に連絡する支線を敷設する要望は地元では早くから湧いており、ことあるごとに関係機関に要請をしてきた。地元出身者の代議士沢田利吉が政友会の後藤総裁と共に訪れた時も、この陳情が行われた。結局、鉄道敷設には国会の決議が必要であり、早急にはできない。民間で設立し、以後政府に買い上げてもらう・・・・という方向になった。
 このとき同行した電通記者、畑金吉が残留を命ぜられ、寿都鉄道の設立、運営に当たることとなる。こうして寿都鉄道株式会社が、資本金50万円をもって設立された。重役には函館、小樽の実業家が名を連ねていた。
 翌8年7月に竣功されたものの、厳しいスタートであった。第1次大戦後で鉄が値上がり、建設費は倍以上の90万円近くなった。それでも、大正9年10月に、この地方繁栄の担い手として盛大な開通式が行われた。民間鉄道として、道内でも早いほうである。
機関車2両、客車4両、貨物車13両などは、鉄道省から払下げを受けたもので、1日4便の運行であった。貨物では年間を通じて鉱産物があり、時期によっての海産物輸送などが経営を支え、また、あのダルマストーブを積み込んだ客車も、相当数の客を運んだ。利用客は年間10~13万人前後で、昭和21年のピークには31万人前後を数える。

※こちらの写真は、小樽市在住の星 良助氏から資料提供していただいた写真です。
著作権は星さんにありますので、無断転載や複製(コピー)等、著作権を侵害する行為は
絶対におやめください。
 寿都鉄道は、年6%の補助を受けていた。国から4%、道から2%である。畑金吉は鉄道軌道同士会のリーダーとなり、道条例を改正させてまで補助を引き出す運動を展開した。
 また、彼は政府買上げの件について、国会があるたび議員全員に陳情を行い、その実現に努めた。継続審議が繰り返されたのであるが、ついに実現には至らなかった。
 それでも、事業資金債務を13年で償還し終え、以後順調かと思われた寿都鉄道ではあるが・・・・・・・
 厳しいスタートながら、順調な経営を進めていた寿都鉄道ではあるが、第2次世界大戦後、経営は次第に悪化し始める。
 物価・人件費が高騰する中、運賃は物価庁からの許可がおりず、数年間据え置かれたままであった。
 こうした中で、昭和27年、経費削減のため燃費の良いディーゼル機関車の導入を図った。このディーゼルは大阪の汽車製造会社が南米輸出用に数輌製作していたもので、同社のバックアップにより賃したものである。
 ここで特筆すべきことは、寿都鉄道が道内ではじめて営業用としてディテールを動かした、ということである。道内の国鉄では、昭和28年北陸線で行われているが、ディーゼル営業開始期は不詳)
 いずれにしろ、寿都鉄道の27年11月の導入は、極めて早い方である。さらに、昭和30年にはトルクコンバータ(オートマチック変速機)を積んだディーゼル第2段DC512を導入している。この変速機構も、当時最新のものであった。
国鉄からも、このディーゼルをずいぶん視察に来たという。後日、「古典機関車が走っている」と言われた寿都鉄道ではあるが、近代的なディーゼル実用化の先駆者でもあった。
 しかし、こうした経営陣の努力もかいなく、経営は悪化する一方となる。道路整備によって貨物のトラック輸送が多くなり、バス運行に伴う鉄道利用客の減少が、これに拍車をかけた。
 ついに昭和43年から運行休止、46年には鉄道利用廃止の許可を受け、ここに寿都鉄道株式会社の解散となる。栄光と苦悩に満ちた半世紀であった。

※こちらの写真は、小樽市在住の星 良助氏から資料提供していただいた写真です。
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カクジュウ佐藤家(道指定有形文化財)

<p>義経の家臣、佐藤継信の末裔(まつえい)が明治初期に建てた漁場建築の代表的な建築物。
 現在でも人が住んでおり、ニシン場時代の資料や文献が大切に保管されています。 

 平成27年4月に町に建物を寄贈していただき、現在一般公開に向けて整備保全作業を行っております。</p>

義経の家臣、佐藤継信の末裔(まつえい)が明治初期に建てた漁場建築の代表的な建築物。  現在でも人が住んでおり、ニシン場時代の資料や文献が大切に保管されています。   平成27年4月に町に建物を寄贈していただき、現在一般公開に向けて整備保全作業を行っております。

建 物  母 屋   間口24.3m(13間半) 奥行18m(10間)
 部屋数   1階10室  2階7室  計17室
 用 材   内部総桧材・漆塗り
建築年  明治10~20年の間(道教委)
特 徴  和洋折衷様式
  ・屋根の洋風六角の明かり取り・切妻屋根の煙り出し
  ・2階の上げ下げガラス窓・1階のタテシゲ格子
  ・寄せ棟屋根
  ・西洋風下見張り(外壁の横板張り重ね)漁夫宿泊部がないこと
   番屋を別に設けたことによる。



詳細

詳細
漁場建築 佐藤家
所在地 寿都郡寿都町字歌棄町有戸163番地
指定年月日 昭和43年3月29日
管理者 寿都町役場



佐藤家は、嘉永5年(1852)以降に歌棄、磯谷二場所の場所請負人を勤め、維新後は駅逓取扱人を命ぜられた同地方随一の名家である。積丹半島開発および漁法改良に尽力した開発功労者としても著名である。

 この建物は、国道229号線に接して正面を海岸に向けて建ち、母屋は間口24.3メートル、奥行18メートルの2階建で、よせ棟屋根に西洋風下見張り、2階正面には櫛形ペジメントの付いた上げ下げガラス窓、1階前面はたてしげ格子、さらに、下見張りの戸袋でまとめ、屋根の大棟をまたいで洋風の六角形の明かり取り、その背後に和風の切妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風とが入りまじった折衷の独自のスタイルの外形をもっている。

 内部は、正面右より玄関からかぎの手の形の土間が奥まで通り、その左側には、前向に帳場、その後に常居が並び、かぎの手土間に接して台所がある。また、帳場の奥には、前面に沿って中の間、浜座敷と並び、常居の奥は、六畳、仏間と並ぶ。仏間の後方には上段の間があり、六畳の後方には九畳、常居後方には八畳がある。また、常居から二箇所の階段があり二階に上がるが、二階正面に5室、後方にかぎの手状の大室がある。また、常居から台所の脇を通って、下屋で後方別棟の土蔵に通ずる。以上のように、ニシン漁場建築に普遍的にみられる漁夫宿泊部をほとんど含んでいない点に特色がある。

 この建物の完成年代は、佐藤家の口伝では明治3年としているが、確認資料は発見されていない。外形の洋風建築形式からみて、常識的には明治10年から20年の間の建築と思われる。

 旧態の保存が良好である上、建築年代、規模、意匠、構造の諸点からみて、現存の漁場建築中で、この建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。

佐藤家の祖先

源義経の家臣、佐藤継信の末裔と伝えられている。
佐藤継信・忠信兄弟の兄。 源平屋島の合戦で義経めがけて飛んできた矢を身代わりになって受け、戦死した忠臣といわれている。
 建物内の長押には、家紋の「源氏車」をかたどった金具を打っている。

嫡流(ちゃくりゅう) 佐藤 丹後 ― 嫡男(ちゃくなん) 佐藤 与右衛門 -(略)- (養父)佐藤 定右衛門 ― 

初代 佐藤 伊三右衛門 (松前枝ヶ崎町の桝屋栄五郎 定右衛門の甥)
明治28年病死
二代 佐藤 栄右衛門(幾太郎 定右衛門の実孫)
三代 佐藤 孝二


佐藤家の業績

初代 枡屋栄五郎
(後 佐藤 栄右衛門

後 佐藤 伊三右衛門)
・嘉永5(1852)年松前藩主から歌棄、磯谷場所を請け負う。
・「鰊建網」を創設。従前の漁法から建網(行成(ゆきなり)網)を用いた漁法に変え、西海岸繁栄の基を築いた。
佐藤家敷地内に『「北海道建網漁業発祥之地」昭和30年10月建立 北海道知事 田中敏文 書』と書かれた石碑がある。
・箱舘奉行所に道路開削を私費で行うことを出願。安政3(1856)に養父定右衛門と共に、汐路(歌棄)から黒松内までの16キロと、磯谷から岩内(アフシタ)までの4キロの計20キロを開く。その功により一代苗字を許され、佐藤姓を名乗る。
・明治時代に入ると、歌棄・磯谷郡両郡用達、戸長兼駅逓取扱を拝命。
二代 佐藤 栄右衛門 ・明治2年初初代栄右衛門から家督を継ぐ。
・明治24年佐藤家主屋の前浜に袋澗を築造。
・潮路小学校新築、歌棄郵便電信局創設等に金員を寄附。また寿都銀行頭取になるなど地域貢献を行う。
・明治37年に北海道議会議員に当選。
・大正4に第12回衆議院議員総選挙に当選。


神社

海神社

所 在 地
磯谷町能津登4番地
例 祭 日
9月第1日曜日
御 祭 神
豊玉彦命・豊玉比売命・倉稲魂命

文化4年のある日、漁師が尻別川で漂流の木像二体を拾いあげてみると一体の背に「いそやのたけ寛文6年丙午8月11日初登浦山円空」とあり、もう一体の背には「らいねんの山」とあり、二体あわせて能津登岬の洞窟内に奉斎した。その後、地元住民の豊漁祈願のため協議の結果、天保2年社殿を建立し奉遷する。爾来海神と称して奉祀してきた。明治9年10月に村社に列せられる。同22年1月18日能津登村稲荷神社の合祀が許可される。明治33年2月8日社殿の改築を出願し、同年3月16日許可を得て5月18日に竣功する。道内では数少ない円空作の木像が現存する神社である。

島古丹稲荷神社

所 在 地
磯谷町島古丹2番地
例 祭 日
8月15日
御 祭 神
倉稲魂命

天保年間、福山町の人西川順兵衛が磯谷場所請負の折、漁業繁栄祈願のため勧請したと伝えられる。爾来年々村中で奉祀していたが、明治5年10月村社に列格した。同26年社殿の改築に着手し同年9月20日竣工し、遷座祭を執行した。同34年社殿の増築を実施した。昭和21年宗教法人となった。

伊都岐島神社

所 在 地
磯谷町横澗1217番地
例 祭 日
8月15日
御 祭 神
市杵島姫命

アイヌの人々が木幣(イナウ)を祀り海上安全と豊漁を祈念して弁天社と称したことに始まると云われている。文政年間に磯谷場所の請負人であった柳谷庄兵衛が新たに木像を祀って社を再建し、磯谷の総鎮守として崇敬されていた。明治9年10月に村社に列せられる。昭和62年7月15日、北海道が施工する公共事業(漁港改修工事)に伴い、鎮座地移転となり、社殿を造営し遷座祭を斎行した。遠くには日本海を望む。

鮫取澗稲荷神社

所 在 地
磯谷町鮫取澗21番地
例 祭 日
8月15日
御 祭 神
保食神

天保年間に磯谷場所請負人の西川準兵衛が建立したことに始まる。明治11年11月に無格社に列せられ、同26年7月26日に改築の許可を得て、同年9月20日に竣功、届けを出した。遠く日本海を望む高台に鎮座している。

美谷稲荷神社

所 在 地
歌棄町美谷98番地
例 祭 日
8月第1土曜日
御 祭 神
倉稲魂命

文政6年5月、場所請負人の柳谷庄兵衛が祀ったことに始まる。天保3年正月に西川順兵衛と請負を替わって同氏が祀っていた。嘉永6年正月、更に佐藤栄衛門と請負替えがあり、以後は地元住民で祀ってきた。明治4年に社を再建し、同9年2月に村社に列せられた。同13年5月14日には現在地に遷座されている。境内は寿都湾を一望し漁業を守護している。

厳島神社

所 在 地
歌棄町有戸151番地
例 祭 日
8月第1土曜日
御 祭 神
市杵島姫命・倉稲魂命・志那都比古命・志那都比売命

歌棄の総鎮守として天保3年5月に再建された。明治7年、有戸村4番地に建立されていたが、境内地が狭く清浄な場所でなかったので、改めて7番地奥の谷間に移転された。明治9年10月に郷社に列せられる。同11年7月新たに社を建立、大正元年12月15日現在地に本殿幣殿等を新築、同2年2月20日現在地に遷座した。寿都町に存在する神社の中で、唯一海上渡御の例大祭が執行されている。また、風の守護神も祀られており、近くには風車の群れが聳え立っている。

湯出神社

所 在 地
湯別町丸山129番地
例 祭 日
8月最終日曜日
御 祭 神
大名牟遲命

文久4年の創立とされている。明治9年に村社に列せられている。湯別町には温泉施設ゆべつのゆが業務されているが、温泉と国土開発の守護神としても地域を守護している。

樽岸稲荷神社

所 在 地
樽岸町建岩238番地
例 祭 日
7月31日
御 祭 神
豊宇気比売命

天保11年、稲荷神の崇敬者15人が漁業の安全と大漁を祈念して、山城国紀伊郡稲荷山神社より御分霊を戴き祀ったことに始まる。明治9年、村社に列せられる。同34年11月8日、社殿増築の届出を出願し、同月16日に許可される。大正9年2月1日、旧境内地が鉄道の敷地に該当する為、現在地へ移転を出願し同年3月18日に許可を得て同年4月2日に遷座した。境内は高台にあり、漁業を守護している。

壽都神社

所 在 地
渡島町127番地2
例 祭 日
7月海の日前の金・土・日
御 祭 神
市杵島比売命・倉稲魂命・豊受比売命

寛永4年4月、北海道に向かう筑紫国の弁天丸が日本海航海途中に遭難となり、寿都湾で座礁した際、船主乗組員は神の守護と住民に救助された事に感謝し、船中の弁天神を岩崎町の一角に祠を建て奉斎した。後にこの近辺が松前藩士鈴木喜三郎の知行する漁場となり、戸数増加の形態を為すにより厚い信仰を受け、新たに社を建立した。明治5年8月、厳島神社と称して郷社に列格、大正14年11月、「壽都」の町名を冠し、壽都神社と改称した。昭和52年11月、国道229線の境内地通過に伴い現在地に遷座、平成20年には御創祀380年を迎え、記念大祭・神輿全面修復・社務所改築工事が記念事業として行われた。また、時代毎に船主が奉納した一の鳥居・錨・北前船絵馬が大切に保存されている。御創祀380年の歴史と古格は、後志一を誇る我が故郷の文化遺産である。

鰊御殿

明治12年に仕込屋である橋本与作が建てたといわれています。釘を一本も使っていない見事な建築であり、国道向かいには「追分記念碑」もあります。

名 称
鰊御殿
所在地
寿都郡寿都町字歌棄町有戸14番地
構 造
木造2階建 下見板張り

【担当部署】教育委員会  住民学習推進係    TEL:0136-62-2100

寿都町Webカメラ

「ゆべつのゆ展望台」から
「ゆべつのゆ展望台」から
寿都町では町内の下記にWebカメラを設置しております。

橋本家(旧鰊御殿)

ゆべつのゆ展望台

交通アクセス

交通アクセスのイメージ
札幌市から
約150km、車で約180分
小樽市から
約100km、車で約120分
函館市から
約140km、車で約170分
ニセコ町から
約60km、車で約60分
新千歳空港から(有料区間)
約180km、車で約150分
寿都町の人口と世帯
人口
2,647人
世帯数
1,564世帯
1,309人
1,338人

令和6年9月末現在